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こころのメッセージ


処方薬依存からの回復

北九州ダルクデイケアセンター スタッフ 樋口 克也

H26年11月掲載

はじめに

私は処方薬の薬物依存症者です。処方薬とは、精神的な不調があれば、誰でも出会う可能性のある精神安定剤や睡眠薬などです。
薬物といえば、ちまたでよく聞く覚せい剤やシンナー、大麻、危険ドラッグなどを思い浮べるかもしれませんが、処方薬も医師の指示を守らず、誤った使い方をすると薬物依存の状態になることがあります。

処方薬依存になるまで

私は小さい頃から喘息がひどく、発作を起こすと病院に連れて行ってくれるのはいつも母でした。私の父は、ワーカホリックで家のことには無関心だったので、母はいつも辛そうで、私は母の愚痴の聞き役でした。母がいないと生きていけないと思っていたので、母の役に立っていないと不安だったのです。

しかし、中学になり思春期を迎えると、母に反抗することも増えてきました。でも、母は親の権利を振りかざし、抑えつけてきます。母とぶつかることが多くなり、このままでは見捨てられるんじゃないかという不安もありましたが、反面、私は徐々に自分の感情に蓋をするようになりました。

その頃から、学校に行こうとするとトイレに何度も駆け込むようになり、過敏性腸症候群に悩むようになりました。どこにも居場所がなく、生きているという実感もありませんでした。そのような時、精神科を受診し、安定剤・睡眠薬を処方されました。

最初に服用した時は、「こんな良いものがあったのか!?」と思いました。薬を飲むと、集中力が増し、やる気がでるように感じました。生きることが急に楽しくなり、薬が効いて、緊張が解けた時だけ、充実感が得られました。気がつくと私は、心身を休めるために処方されたはずの薬を、寝る間も惜しんで勉強するために服用するようになっていました。最初から、処方薬の使用目的が間違っていたのです。しかし、そのことに気づくのは、薬物依存回復プログラムにつながってからでした。

その後も精神科の通院を続け、色々な薬を処方してもらい、薬に関する本を読み、どんな薬なのか調べたりしていました。その中で、診断名も変わっていきました。今思うと、診断名というラベルは変わっても、生きづらさが根っこにある「薬物依存症」だったと思います。

とにかく生きるためには薬が必要で、薬なしの人生は考えられない感じでした。20代に入った頃、主治医からは森田療法を勧められたり、母からは霊能者のところへ連れて行かれたりしていました。私も当時は、回復したいという気持ちから、ダルイ身体に鞭打って、畑へ出かけたり、霊能者から渡されたお札を飲んでみたりしていました。でも、どうにもならない現実に、死にたくなり、結局、処方薬に依存していました。当時は、薬の使い方に問題があるとは思ってもいませんでした。

そんな状態が続いていた頃、「結婚」という大きな転機がありました。結婚後は、以前から問題のあったパチンコが余計にひどくなり、仕事帰りに睡眠薬や安定剤を一緒に飲み、そのままパチンコ屋に閉店までいる生活を続け、借金は瞬く間に膨れ上がりました。しかし、借金をしても何とかなるだろうという思いから、さらにパチンコにはまるようになり、結婚半年後には、借金という大きなストレスにより、喘息の重積発作を起こして入院することになりました。そこで、入院生活の退屈さを紛らわすため、朝から睡眠薬を飲むようになりました。退院してからも、薬の乱用は止まらず、2週間分の薬が1週間でなくなり、自分の代わりに嫁に病院へ行ってもらい、嘘をついて薬をもらってきてもらうこともありました。その後、また重積発作を起こして入院し、薬を管理されることになりました。

回復への道のり

そんな状態が続いていた頃、入院している病院の看護師から、「あなたの薬の飲み方はおかしい。きちんとした精神科で相談しなさい。」と言われました。退院後、薬物依存の治療ができる病院を探し、受診したところ、「あなたは薬物とギャンブルの依存症です。」と言われました。自分はギャンブルに問題はあるかもしれないけど、薬物依存ではないと思いました。いわゆる否認の状態です。その後、離婚し、主治医の提案を受け、3ヶ月休職。実家に帰りました。

そこで、パチンコは止めようとしましたが、薬については問題ない、上手く使おうとしていました。でもなかなか上手く使えずに、何かあるたびにまとめ飲みをしていました。

その頃、アダルトチルドレンの本を読んだことをきっかけに自分の病気の責任を親のせいにして、責めていました。しかし、薬を止めようとしないのでパチンコも止まりません。止めようとしているパチンコが止まらないことに悩んでいました。

そんな状態が半年ほど続いたある日、親を説教し親を追い込んだことで自分が一人きりになるという現実に突き当たり、今の自分がとことん嫌になりました。医師に頼んで入院先を探してもらいました。佐賀県の精神病院に入院することになり、依存性のある薬から、依存性のない薬に置き換える作業が始まりました。1ヶ月経った頃、効いた感じのしない薬と辛い現実に耐え切れず、退院させてもらいました。

その後、自力で3ヶ月間、処方薬を止めました。でも、強い怒りに襲われた時、病院を受診して嘘をつき、安定剤を処方してもらいました。まとめ飲みをしたら気持ちよくなって、気づいたらパチンコ台に座っていました。またパチンコをしていると思いながらも止まりません。その時、少しだけ原因は薬にあるのかも!?と初めて思いました。

そこで、医師に相談し、また入院させてもらいました。37歳の時、ダルクの仲間が病院に、「どんな薬物依存症者でも必ず回復できる」という希望のメッセージを届けに来てくれ、その話を聴いたり、週に一回自助グループのミーティングへ参加するようになりました。薬を使っていなくても楽しそうな仲間との出会いは、強く自分を惹きつけました。医療スタッフの言うことに対しては、あまのじゃくになっていた自分も、仲間には何故か心を開くことができました。

退院後、ダルク、NA(自助グループ)につながりました。自分の力でやるだけやってみないと問題を認めることができませんでした。その後も昔の生き方や頑固な自我がでてきて、苦しくなることもありましたが、それでも仲間からは離れませんでした。ミーティングで何年も自分の過去を振り返っていると、薬ではなく「薬物」として使っていたことが見えてきました。徐々に、私は薬物依存症なんだなぁと思うようになりました。昔は、薬が生き抜くための唯一の手段でした。でも、ダルクやNAと繋がってからは、仲間の力を頼りながら今日一日薬から離れるという生き方を続け、徐々に薬は生きていくために必要なものではなくなりました。

最後に

時折、過去の精神科の病気は何だったのだろうと思います。精神科に行って薬と出会わなければ薬物依存症に陥っていなかったのでは!?否、出会っていなければ生きてはいなかったかも?と思えます。

処方薬は必要な人がいるし合法だからこそ問題が出ていることに気がつきにくいと思います。だからこそ、医療スタッフが薬物依存症のことにもっと関心を持っていただきたいと思います。本人も家族も気づけないのですから。

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